『火縄銃』の歴史や地域情報

日本への【火縄銃】の伝来に関しては、1543年(天文12年)に種子島にポルトガル人が持ち込んだ説が従来の説でありますが、近年の研究によると、1543年(天文12年)より以前に倭寇勢力により、日本各地に火器が持ち込まれたのが有力な説だそうです。

そして戦国時代以降になると、【火縄銃】では有名な和泉(現在の大阪府)の堺の他にも、近江(現在の滋賀県)の国友・日野、紀伊(現在の和歌山県と三重県南部)の根来が日本国内における鉄砲の主要生産地となり、鉄砲鍛冶が軒を連ねたそうです。

中でも根来に関しては、織田信長及び豊臣秀吉の紀州攻めにより、桃山時代以降鉄砲の生産は衰退しましたが、その他の、和泉の堺、近江の国友・日野はそれからも鉄砲の生産地として、高い技術力も持ち繁栄しました。

また、鉄砲鍛冶の職人や【火縄銃】を専門に使用する鉄砲足軽が多く居住していた城下町を「鉄砲町」と呼び、現在でも各地に地名として残っています。
そのため、戦国時代末期になると、日本は【火縄銃】を50万丁以上所持しており、当時の世界有数の銃の保有国でした。

文禄・慶長の役では、日本軍は明軍に対して【火縄銃】を集団使用を行ない、明軍の侵攻に対抗しました。
それにより、日本軍の瞬発式火縄銃は命中率が高く飛ぶ鳥を落とすくらいだと明の軍勢は鳥銃と呼び恐れました。