『勲章』の歴史や地域情報

日本にて西欧に倣った【勲章】制度が定められたのは、明治時代ですが、薩摩藩が幕末に『功牌』を製作・授与していました。
また薩摩藩は、1867年(慶応3年)に開催されたパリ万博に於いて、フランスのレジオンドヌール勲章を摸した、薩摩琉球国の『功牌』を現地で製作し、ナポレオン3世以下フランス政府高官に贈りました。
しかし、その後に発生した明治維新により、薩摩琉球国勲章の存在意義も失われ、薩摩藩の『功牌』は最初で最後となりました。

そして1875年(明治8年)4月10日に、明治政府は賞牌欽定の詔を発して賞牌従軍牌制定ノ件を交付し勲等と賞牌の制度が定め、勲一等から勲八等までの勲等を叙した者にそれぞれ一等賞牌から八等賞牌までの賞牌を贈りました。
その後、1876年(明治9年)12月27日に、勲一等の上位に大勲位が設けられ、これに対応する勲章として、『菊花大綬章』と『菊花章』が制定され、1888年(明治21年)1月3日には、制度運用の円滑化を図り諸外国の例に倣い、宝冠章と瑞宝章が新設され、旭日章には旭日大綬章の上位に旭日桐花大綬章が、菊花章には菊花大綬章の上位に菊花章頸飾されました。

しかし、1945年(昭和20年)8月に終戦とGHQによる占領統治によって、官吏制度が根本的が変化し、従来の叙勲内則の適用が困難となりました。
また1947年(昭和22年)には、日本国憲法に「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。」と定められたことにより、栄典に伴う様々な特権も廃止となりました。
そして、1964年(昭和39年)4月21日に、新しい「叙勲基準」が閣議決定され、同月29日に吉田茂に大勲位菊花大綬章、そして石橋湛山・片山哲らに勲一等旭日大綬章が授与され、その後毎年2回、春と秋に叙勲が発令されています。